ナスク物語

 昭和44年。世界はアポロ11号の月面着陸に沸き、日本では至る所で学生運動が盛んに行われていました。大阪万博を翌年に控え、時代の流れが急に加速し始めた、そんな感がありました。
この年大学を卒業し、東京で大手損害保険会社の新人サラリーマンとなって意気揚々とする私に、突然の訃報が舞い込みました。

 ナスクの前身である「上熊本建具工業所」のオーナー社長であった父、重志が、工場長と二人で釣りに出掛け、鹿児島の佐多岬で二人とも帰らぬ人となりました。
実の父を突然に亡くす深い悲しみとともに、経営者と職人頭を失った会社の現実に、茫然自失となりました。
鹿児島出身の父は、9人兄弟の7番目。熊本市の池田町で木工所を営んでいた次兄のもとで木工技術を習得すると、昭和22年に自らも創業します。昔かたぎな職人だった父は、製図や見積といったものは全て自分の頭の中にあり、書類など残しておらず、経営の継承は大変困難でした。父が亡くなると、社員が一人抜け、二人抜けし、すぐに三人に減ってしまいました。

 会社は技術者集団といえば聞こえはいいのですが、それこそ職人の集まりでしたから、経営などかじ取りのできる人はいませんでした。しかも、工場拡張のため父は、大きな借り入れを起こしたばかりで廃業できる選択肢はありませんでした。
私は父の会社「上熊本建具工業所」の事業を必死の思いで継承することとなりました。一部上場企業の社会人としてのプライドも、花の都東京での暮らしも微塵となり、絶望に近い気持ちで熊本へ帰ってきたのです。22歳でした。

 事業継承した当初は、業界や経営について右も左もわからず業績は急落していきました。仕事は取れない、給料は払えない、借金は増えるといった負のスパイラルの只中にありました。経営者として未熟であることが悔しく、現実に背を向けたくなることも多々ありました。
状況はどんどん悪化し、いよいよ剣が峰の崖っ淵に立たされた時でした。

「この仕事を天職としよう。」

私はそう心に誓いました。

 当時、建具の仕事は、お客様と約束した工期から遅れるのが常でした。私は会社の新しいスローガンとして“受けた仕事は絶対に間に合わせよう”“精一杯、質の高い仕事をしよう”“働きがいのある職場を創ろう“と心に決めて、まだ若く経験も浅い私は、ただがむしゃらに突っ走るしかありませんでした。

 やがて、本気で一所懸命仕事をしていると、いろんな場面で救いの手を差し伸べてくれる人達がいることを体験しはじめました。
多くの方達の援助や協力を頂き、会社はやっと、右肩上がりに転じることができました。40歳までは睡眠時間を削り、25人ほどに増えた社員さんと力を合わせて仕事に没頭しました。
会社は軌道に乗り、仕事は増え続けていきます。建設需要の拡大と、競合他社との差別化が功を奏してお取引先からの信用も増大していきました。

 40歳になってやっと順風かと思えた矢先のこと、劇性肝炎で半年入院する重病を患ってしまいました。
焦燥感と絶望感の中で、仕事を社員に任せざるを得ない状況から、社員一丸となる社風が芽生え、さらに業績アップへ繋がりました。

 平成5年に、合志市に新工場を建設し社名も変更しました。評価も上がり、九州トップクラスの実績を積み上げ続けています。
また、社会人はほとんどの生活時間を仕事に割いているわけですから、自己実現のステージは職場にあると考え、私は会社経営に三つの目標を設けました。

先ずは、「環境や状況の変化に対応でき、いつまでも存続し、安心・安定して働ける“強い会社”」であること。

そして「楽しく働ける、働きがいのある職場、豊かな生活が実現する“良い会社”」であること。

そして納税はもちろん豊かな社会環境の実現に貢献する会社でありたいと願っています。

 経営陣も厚くなり、平成10年頃から毎年高校新卒者を1~2名採用し続け、全国技能五輪に出場させるなど若い技術者の育成に力を注ぎ、技術レベルの向上をはかっています。
私どもは、技術力と人間力の両輪を錬磨し、お客様の満足と信頼を頂く「質の高い商品とサービス」を提供し続ける会社を目指しています。

代表取締役 永田 利一